目次
更新。各日付の箇所へ移動します。
4月20日
4月21日
4月23日
4月24日
4月26日
4月27日
4月28日
4月29日
4月30日
5月1日
5月2日
5月3日
5月4日
5月5日
5月6日
5月7日
5月8日
5月9日
5月10日
5月11日
5月12日
5月13日
5月14日
5月15日
このページが重たくなったので、5月16日からは2ページ目をアップします。
2ページ目は「こちら」
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更新 平成28年4月20日21時
避難先の無料のWiFiが使用できるようになったので、急遽写真をアップします。
メルヘン村全体。村の前の県道が埋もれている。
写真のアスファルトの道は、県道の下を通っている村道。
メルヘン村入口
県道をメルヘン村を通りすぎて、振り返った。
メルヘン村内の崩落して無くなった道。
左のペンションは下の土が無くなっている。
ダイアリーの建物は、見た目はいつもと変わらないが、いたるところにヒビ・切れ目があり、建物は傾いている。
地面には無数の割れ目もある。
煙突は倒壊、離れも全壊した。
水道のタンクは、その場で横転した。
散乱しているダイアリー周り。
ダイアリーの駐車場の電柱は、3つに折れて倒壊。
水道の高架タンクは、ひしゃげて無くなった。
救助のヘリコプターに三人が運ばれた。
ペンションの中の状態は、またアップします。
疲れてきたので、今日はとりあえずここまで。
避難先の南阿蘇中学校体育館より。
只今の時間は、4月20日21時18分。
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更新 平成28年4月21日
今日は一日雨だったので、体育館で過ごしました。
本箱などが散乱したプレイルーム
自慢の図書コーナーが無残なことに。
地震発生に備えて、私だけプレイルームに寝ていた。
でも発生時とその後のことは、よく覚えていない。
避難先の南阿蘇中学校の体育館。
右奥のグランドにも、自衛隊の車が並んでいる。
全国から救急も駆けつけていた。
体育館内部。
賑やかだが、ここにいると救援物資が集まるので、食べ物・飲み物・毛布類には事欠かない。
住民の情報交換になっているロビー。
新聞が届きだした。
情報が少ないので助かる。
あの名物の自衛隊のお風呂。
災害のテレビでよく見たが、まさか自分がこの風呂にはいるとは・・・。
しかしタップリなお湯と、水量豊富なシャワーはやっぱり気持ちよかった。
本日はこれまで。
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更新 平成28年4月23日午前2時
被災して一週間がたった。
あっという間の一週間。
ココ避難場所での生活も慣れてきた。
ココでの暮らし、最初はどうなることか心配だったが、なんだか慣れてきてしまった。
周りの知らない人たちとお友達になったり、また色々なことでお互いが協力しあったり、
困った人がいたら声をかけたりと、自然と身体が反応するようになって来た。
ココ南阿蘇中学校体育館の避難者は体育館内350人。
車中泊150人。合計約500人います。
今深夜で消灯中で、非常灯の薄明かりでこの記事をアップしているが、
アチコチから聞こえてくる「イビキ」が、ツチガエルの鳴き声に聞こえて、
まるで田んぼの中にいるようだ。
さて今使用している災害時の無料Wihiがこちらです。
しかし回線がよく切れるので、頻繁に設定・接続しなければいけない。
でもこれがあるので、ページもスムーズに更新出来大変助かる。
国土地理院のHPに掲載されている、地震後の上空からのメルヘン村の写真。
メルヘン村周囲の崩落や県道の状態がよくわかる。
直接ネットで見られる方は、
「国土地理院」
↓
「平成28年熊本地震に関する情報」
↓
「地理院地図(空中写真当)による情報提供」
↓
「南阿蘇村長野地区の土砂流出箇所付近」
では今日はこれで失礼します。
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更新 平成28年4月24日午前3時
外観は傷んでいないように見えるが。
プレイルーム内
オーナー自慢のオーディオセットも無残な姿に。
厨房内。
ダイアリーママが作る人気の湯種パンを、いつも焼いているオーブンの姿が見ない。
地震翌日、まだ余震が続く中、
このオーナーズルームから、先祖の位牌と「ニッキー」の遺骨を見つけ出した!
あの重量があるボイラーも大きくずれていた。
地面にはいたるところに亀裂が。
しかもその亀裂が、日々広がっているような気がする。
では今日はこれで失礼します。
追伸、地震後に多くの皆様からメールを頂いて感謝申し上げます。
頂いたメール全てに目を通していますが、なかなかご返事を書けない状態です。
後日落ち着きましたら、改めてご連絡を差し上げます。
もしお急ぎの場合は「090-7444-0515」へショートメールをいただければ幸いです。
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更新 平成28年4月26日午前1時
「まさか起きるわけない・・・」
そのまさかが自分たちに起きてしまった。
いままで他人事だった事が。
しかし起きてしまってはもう仕方ないと、開き直るしかない。
だって大自然の前には、人間の力なんて非力なものだから。
あの阿蘇大橋が無くなっている。
夢ではない。
「阿蘇大橋から・・・」「阿蘇大橋を渡って・・・」と、
いつも会話の中心となって、愛着があったあの阿蘇大橋が無くなった。
山とともに崩落した写真を見ると、涙が出てくる。
今いる避難場所は「ノロウイルス」で有名になった、南阿蘇村中学校の体育館です。
この日はスタッフ総出で体育館の除菌・大掃除・配置換えが行われました。
床にはブールーシートがひかれ、土足禁止になって綺麗になった。
皆さん興味あると思う避難場所の食事を紹介します。(写真はあくまで一例)
朝食、おにぎり・お汁・キュウリの漬物。
朝食はかんたんに。
昼食、讃岐うどん。まさか避難先で名物のウドンが食べられるとは。
夕食、豚のハラミステーキ丼・自衛隊が握ったおにぎり・ポテトサラダ・お汁。
この豚のハラミステーキ丼が結構旨かった。今までの中で一番旨かった。
写真を見ると量が少ないようだが、もともと少食の腹八分の自分にとっては、お腹いっぱい。
お腹が空けば支援物資の「パン」や「お菓子」「飲み物」が沢山あり、不謹慎だが避難が終わった頃は、太っているかも。
毎日三度の食事を作ってくださる、スタッフやボランティアの皆さんに、感謝申し上げます。
ある日の昼食風景。(まだブルーシートがひかれる前)
長女は、避難場所から保育園に出勤を再開。
次女は、会社が準備してくれたリゾートホテルへ、移っていった。
会社から家族も一緒にと勧められたが、ここにいると色々大事な情報が入ってくるので、暫らくはここに滞在します。
ダイアリーママは、顔面の傷のカサブタや腫れも取れ、やっと見られるようになった。
では今日はこれで失礼します。
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更新 平成28年4月27日午前2時
今日少し時間がとれたので、近くを車で回ってみました。
でもそこにはいつもと違った、想像以上の世界が広がっていた。
ペンションのすぐ裏の「乙ヶ瀬集落」の棚田が大規模に崩壊していた。
この棚田は、毎年田植えの後の夕焼けが感動的で、よく撮影に行っていた。
しかしもうこの景色が見られなくなった。
寂しいと言うより、悲しい。
久木野の「免の石」
落ちそうで落ちないこの岩は、合格祈願として受験生に人気があった。
が、この石も地震のため落下してしまった。
あの落下した「阿蘇大橋」の近くにある高圧送電線の塔。
地震の影響で使用不能になったので、建て替えが急ピッチで行われていた。
左の建物は「アソシエイト」
そのため南阿蘇は高圧送電線が使用できないため、全域が停電していた。
現在は全国から駆けつけた、高圧発電機を搭載した車が集まって、多くの場所から24時間送電している。
電気って本当に有りがたいものだ。
このHPを更新して皆様に近況を提供できるのも、
避難所に電気が通っているから出来るのだから。
JR豊肥線の赤水駅の近くで、電車が脱線していた。
よく見るとレールが外側へ曲がっていた。
健磐竜命が、身重な妃の姿を隠すために、一夜でつくったという伝説が残る「夜峰山」
一時は山が崩れると噂が流れて、住民たちがパニックになったが、
今のところ大規模な崩落は免れている。
しかし山肌には、まだ斜めに亀裂が入っているのが見られる。
山肌のこげ茶色の箇所は、今回の地震で崩落した跡。
今日はこれで失礼。
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更新 平成28年4月28日午後9時
応急危険度判定で「赤紙」の危険が貼られました。
ダイアリーだけではなく、メルヘン村内のすべての建物に貼られています。
周辺の崖が崩壊する恐れがあるためですね。
この紙には「この建物に立ち入ることは危険です」と書かれています。
いよいよ慣れ親しんだこの家にも、入ることは難しくなった。
寂しさが募るばかりです。
メルヘン村の土地に、写真の杭がいたるところに打ってあります。
地面の割れ目が大きくなっていないか、調べるのですね。
応急危険度判定では、どうもこの丘全体がヤバイらしい。
その割れ目から雨が浸透しないように、ブルーシートが敷かれています。
誰もいなくなり、不気味なほどの静寂に包まれるメルヘン村に、
無常にも白い霧が静かに覆い始めた。
もう以前の生活には戻れない。
いったいこれからどうなるのか。
★ダイアリーママがインフルエンザに罹りました。
昨日から喉が痛いと言って、避難所の救急に診察してもらった。
体育館での集団生活が出来ないので、隣の体育館に隔離された。
家族全員です。
地震後、次から次といろんな事があったので、かなり無理をしていたようだ。
今後熱が引いて2日ほど隔離されるので、暫らくは外に出られない。
今回の更新は、隔離された場所でWi-Fiが使えないので、iPhoneでディザリングを使って更新しています。
初ディザリングですが、意外と簡単に出来た。
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更新 平成28年4月29日午後9時
今、隔離先から更新しています。
ダイアリーママは、夕方の検診では体温は36度5分まで下がっていて、
食欲もありもう大丈夫みたいです。
でも後、二三日は隔離された状態が、続くみたいです。
しかし外出もままならない、ここでの生活は大変苦痛です。
私たちは熱も痛みもない、食欲も普通だし、よく眠れるし。
外出して色々予定があったが、今はただ時間が過ぎ去るのを待つだけです。
次女の勤め先から、我が家に救援物資が届きました。
避難所に置いておくスペースはないので、知り合いのペンションに置かさせてもらいました。
しかし大量の差し入れ、避難所を出た後に役立ちそうです。
差し入れのなかには、こんな物もありました。
一時避難先にホテルを提供していただいたり、差し入れを頂いたり。
本当に有難うございます。
ところで次女の勤務先は?
上の写真にヒントがあります。
全国から励ましのお便りが届くようになりました。
写真は宮城県石巻から頂きました。
かわいい貼り絵も同封してありました。
同じ体験をされて、今も仮設にお住まいとのこと。
ご自分たちも大変なのに、熊本のことを気遣って頂き頭が下がる思いです。
有難うございました。
大分県日田市の中学生からも頂きました。
各避難者へ一通ずつ配られました。
一通はサッカー部の男の子、もう一通は女の子でボランティアにも参加したいとのこと。
具体的なお名前は掲載できませんが、本当に有難うございました。大変嬉しいです。
では今日はこれで失礼します。
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更新 平成4月30日19時
今日も隔離先から、ディザリングを使って更新しています。
ダイリーママは平熱に戻ったので、我々も明日には開放されそうです。
今日は、地震後全国ニュースで盛んに取り上げられていた場所と、ダイアリーのあるメルヘン村の位置関係を説明します。
「火の鳥温泉」
宿泊二名が犠牲になった所です。
毎年メルヘン村の忘年会をしている所で、ここのスタッフの方々とは知り合いです。
「高野台」
すぐ右手に見えるのが京大の火山研究所で、この丘はワラビがよく採れる所で、犬の散歩コースでもありました。
ここでも犠牲者が五名出ました。
「黒川地区」
五名が亡くなりました。大学生もいます。
東海大学の学生さんたちの下宿やアパートがあります。
ダイアリーも、かつてここに住む学生さんに、ペンションの手伝いをしてもらったことがあります。
もう25年前のとこですが。
昨夜その人と電話で話しましたが、彼もショックを受けていたみたいです。
大学も閉鎖されるそうです。
また下宿を経営されている方にも、知り合いが居ます。
皆さん下宿の建物にも、大きな被害が出ています。
「阿蘇大橋」
大学生一名が行方不明です。
二次災害の恐れがあるので、無線コントロールの重機により、捜索が続行中。
南阿蘇の大動脈のこの橋が、崩落するなんて。
今回の地震で阿蘇の被害は、ここに集中しています。
やはりここに日奈久活断層があるそうで、
しかも阿蘇の大地は、火山灰で出来ているので、モロイそうです。
全て近所で起こったことではあるが、まだ信じられない、夢を見ている気分です。
これから南阿蘇はどうなるのか。
では今日はこれで終わります。
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更新 平成28年5月1日
ダイアリーママのインフルエンザが完治したので、4日ぶりに開放された。
久しぶりのシャバの空気は、透き通って気持ちいい。
お天道さまが眩しい。
写真は隔離されている状態。
この状態での4日間はキツかった。
気付けばあの地震から二週間も経ってしまった。
ここ(避難所)での生活も二週間たった。
皆さん避難所での生活は大変でしょうと言ってくださるが、
慣れてきたので、まあまあ快適です。
まだ暫らくはここにいるでしょう。
その訳は、
ここにいると色々な情報が入ってきます。
今の生活や今後の生活に役立つ、ありとあらゆる情報が集まっています。
また新聞や、村が発行する災害情報紙もあります。
では今日はこれで失礼します。
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更新 平成38年5月2日20時
昨日久しぶりに開放されたが、グランドを見て驚いた。
随分車の数が減っている。地震直後に比べて、約三割しかない。
多い時は、隣のグランドも使用していたが。
皆さん、親戚知人の家に移ったり、電気水道が通ったので自宅に戻ったりと、
この避難場所を後にされたのでしょうね。
もう自衛隊の車両も少なくなり、消防・警察・救急・マスコミのタクシー、
上空を飛んでいたヘリコプターも、すっかり見かけなくなった。
避難場所の周囲は、潮が引いたように静かになった。
こうして国民の関心が、少しづつ薄れていくのかな。
しかし被災地・被災者は、これからが本番。
これからが踏ん張りどころ。
ここで負けてはいけない。
皆んなが協力しあって、この難局を載りきらなくては。
気が付けば避難所の空には、一筋の飛行機雲が、
夕日を浴びて輝いていた。
人は非日常を目のあたりにすると、皆無口になる。
そして悲しさを追って涙する。
写真は崩落した「阿蘇大橋」の現場。
信じられないこの風景。
生活の一部だったあの大きな橋が無い!
本当に無いのだ!
国道も豊肥線も無い。
広がるのは、山から流れ下った大量の土砂。
もうショックで言葉も出ない。
ココはいつかはあの頃に戻れるのだろうか。
もう戻れないのだろうか。
拡大写真は「こちら」
では今日はこれで。
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更新 平成28年5月3日20時
山が崩れる!
南阿蘇村下田地区の下田西宮神社の石の鳥居です。
ここも地震の影響が出ていました。
中央が重なりあって、かろうじて鳥居の転倒を防いでいます。
今度大きな余震があると、倒壊するのか。
そしてその奥に見えるのが、山の崩壊の恐れがあると情報が出た、夜峰山です。
近くで見るとアチコチに、山肌の崩落が見られます。
また亀裂もあって、大雨の後の大崩落が心配されます。
山裾の集落の人々は、避難場所へ集まっていて、
まだまだ地震の恐怖は終わっていません。
その夜峰山の裾にある「塩井社神社の湧水池」
いつもはコンコンと出る湧水で、いっぱいの水を蓄えている池は、
カラカラに干上がってしまいました。
思わず「マジかよ!」と叫んでしまいました。
地震の影響で、湧水が出なくなったのですね。
残念。
写真は以前自家製の水中も同時に写せるボックスで撮影。
矢印が同じ穴を示しています。
このように阿蘇には、地震の影響で非日常の世界が広がっています。
時間があれば、時々回って記録しています。
では今日はこれで。
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更新 平成28年5月4日19時
この現実を見せつけられても信じたくない。
写真は黒川地区。
ここは東海大学農学部に通う大学生が利用する、下宿屋やアパートが立ち並ぶ集落です。
町へ買い物に行くとき、必ず通過する場所です。
見慣れた家々が、軒並み無残な姿に。
言葉が出ません。
これが現実と言われても。
信じたくない。
と、毎日思う今日此の頃です。
では今日はこれで失礼します。
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更新 平成28年5月5日16時
連日ショッキングな写真が続きますが、これが現実なのですね。
写真は地震のあとの「鮎返りの滝」
滝自体は残っていたが、対岸の山肌が大きく崩落していた。
拡大写真は「こちら」
地震の前は山紫水明の世界が広がっていたが。
この景色に戻るには、果たして何年掛かるのやら。
山口県から、ダイアリーママの弟家族が、片付けの応援に来てくれた。
倒れたタンスなどを、立ててもらって助かった。
仕事が一息ついたので昼食時間。
差し入れのお寿司が大変旨かった。
お寿司なんて何日ぶりだったかな。
ただ瓦礫の中でのご飯には申し訳なかった。
★ダイアリーママのインフルエンザは完治したが、
今度は自分が「高血圧」と診断された。
(足のシビレはほとんど感じなくなった)
値は189−97。
正直びっくりした。
だって今まで血圧とは無関係の人生だったのに。
今は薬を飲んで154−88まで下がったが、
やはり地震のストレスと、避難場所での濃い味の食事のようだ。
今ではスーパーでカット野菜や、豆腐を買って食べている。
これがまた旨い。
野菜がこんなに旨いなんて。
今日は夜にメルヘン村のメンバーの会合があるので、早めに更新しました。
では今日はこれで。
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更新 平成28年5月6日19時
避難所に早朝から雨が降る。
早いもので、「あの日」から三週間が経った。
あっという間の三週間だった。
写真撮影は午前4時40分。
元々早起きだったので、この時間に起きるのは別に苦痛ではない。
しかしナカナカ晴天が続かない。
雨が降ると、メルヘン村が心配だ。
雨が大地に染み込み、段々亀裂が大きくなっていく。
写真は別の晴れた日の朝の散歩。
避難所の近くに通っている南阿蘇鉄道。
通称「南鉄」と言って、南阿蘇の通勤・通学・観光の重要な交通手段です。
しかし今回の地震で、鉄橋やトンネルに損傷があって現在不通となっている。
復旧の見込みはたっていない。
列車が走らないので、シュウの散歩道になっている。
本当は危険行為で気が引けるが、只今不通なので。
左の山は崩落が心配される「夜峰山」
列車が走らないので、レールは赤茶色に染まっていて、
そのレールの間には、紫色の花が咲いていた。
名前は解らないが、花たちは列車が走らない日が続いたので、
安心して咲いているのかな。
ショッキングな写真が続いたので、
今日はホッコリした写真をお届けしました。
では今日はこれで。
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更新 平成28年5月7日18時
左の赤い矢印は、阿蘇大橋の近くにあるセブン-イレブンです。
ここの店もよく利用していて、店員さんとも顔見知りでした。
店は一年前リニューアルしたばかりだったが、
今回の地震で店の裏は崩落して、高さ100メートルぐらいの断崖絶壁の状態だった。
建物も土地が流れ、浮き上がっている状態だった。
最近はこのような景色を見ても、あまり驚かなくなった。
慣れてしまった自分が怖い。
右の矢印は南阿蘇に電気を送る、高圧送電線の鉄塔。
この鉄塔の地盤がゆるくなって危険な状態で、使用中止になった。
今は近くの安全な場所に、仮説の鉄塔を立てて、送電が始まった。
被災地は急ピッチで、ライフラインの復旧に向けて動き始めている。
アサヒグラフが「九州・熊本大地震」を発行した。
その一ページにメルヘン村が載っていた。
そこには「ペンションに取り残された女性がいた」と書いてあったが、
よく見ると我が家の次女だった!
本人に聞くと、「そう言えば下から男の人が写真を撮っていたような」
載るならもっとハッピーな記事がよかったが、
この写真は今回の体験が、いつまでも彼女の心に残りそして思い出す、
貴重なページとなった。
★ところで私の高血圧だが、
昨日は、上が148下が83。
今日は、上が118下が75と下がってきた。
まだまだ気が抜けないので、毎日避難所の赤十字救護センターで、
測ってもらっている。
★地震後の写真は、全てiPhone5Sにて撮影です。
ではまた。
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更新 平成28年5月8日17時
ニュースで知ってはいたが・・・。
阿蘇神社は楼門や拝殿が崩れていた。
毎年初詣は阿蘇神社に参拝しているが、
まさかまさか・・・あの大きな楼門が、ペッシャンコになっていた。
実は神社の周りは門前町で、古い住宅が密集している場所です。
でも被害が出ている様子はない。
阿蘇神社だけ崩壊している。
なぜ?
もしかしたら町民に被害が出ないように、
皆んなを守るために、神様が一人で被害を受け止められたのでは。
「と思うと涙が出てくる」とダイアリーママが言っていました。
自分もそう思った。
仮の参拝所が出来ていたが、周りは白いボードで目隠されていた。
この残念なお姿を庶民に晒すのはしのび難いと、神社の配慮なのでしょうね。
今回はお賽銭をはずみました。
熊本城と同じように、元の神社に再建されることを切に願います。
夜峰山の崩落の危険性がよく言われますが、
隣の御竈門(おかまど)山も、なんかスゴイことになっています。
大規模な崩落が、山頂付近から発生しています。
ただこちらの山の危険性は聞かないのですが。
大丈夫かな?
★ところで私の高血圧だが、
2日は、上が189下が97。
3日は、上が156下が90。
4日は、上が154下が88。
5日は、上が148下が94。
6日は、上が148下が83。
7日は、上が118下が75。
今日は、上が137下が63と下がってきた。
下が下がってきたのは良い事だ。
もう毎日の血圧の検査は必要ない。
ただ毎日の投薬は継続中だが、
薬と言っても、一番軽いやつを半分程度だ。
ではまた。
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更新 平成28年5月9日午前7時
今日は早めに更新しました。
★被災地に今日も無情の雨が降る。
本当に雨の多い震災後だが、地割した箇所に雨水の浸透が心配だ。
写真は避難所のトイレ用の水を確保しておく水槽。
学校が始まったので、近いうちに別の場所へ移動する話が出ている。
候補として、アーデンホテル・ファームランド・高森南阿蘇国民休暇村が上がっている。
まだ具体的には未定。
★現在のメルヘン村の状態。
メルヘン村の下の県道は、土が除かれ一時は通行可能になったが、
斜面崩落の恐れが出てきたので、再び通行禁止になった。
黄色い矢印の赤いシャツは私です。
この写真はダイアリーママに撮らせました。
★南阿蘇村には、白川水源以外の小さな水源が点在します。
今回の地震で「塩井社神社」(5月3日の記事)の水源は枯れてしまったけど、
他の水源はどうなのか気になったので、回ってみた。
勇沢津水源
池の川水源
吉田城御献上汲場
明神池名水
いずれの水源もいつものように、豊富な湧水で満ちていた。
なぜ塩井社神社水源だけ枯れたのだろうか。
素人地質学者として「他の水源と比べれば、場所の標高が高いから」
全く根拠はありません。悪しからず。
★現在は日中はペンションに戻って、余震を気にしながら、
瓦礫の中から、お金では買えない貴重な品を探しだして、取り出しています。
その中での一番は左のカメラです。
私が勤め始めて、初めて買った「ミノルタSRT101」で、もう50年ぐらい前の事ですね。
このカメラで、本格的に写真人生へと突入したのです。
ホコリまみれで、地震の衝撃で、フードがひしゃげていた。
右側はフジペット。
小学生の時、友達が持っていたもので、欲しかったカメラです。
近年懐かしさのあまり、ネットオークションで手に入れたものです。
2つとも見つけた時は、思わず「あったぞー」と叫びました。
この雑誌を知っている人は相当アレですね。
この本は創刊号から二十数刊揃っていて、
実はペンションのお客様から頂いた、大変貴重な本です。
この本も取り出せて良かったです。
その他、
先祖の位牌。
前ペットのニッキーの遺骨。
ダイアリーママが長年使用していた調理器具。
無傷で使用可能なノートパソコン(貴重なデーターが保存してある)
などです。
もっと取り出したいが、まだ時々余震もあり怖いので難しいですね。
ではまた。
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更新 平成28年5月10日午前8時
地震以降、見るもの聞くもの全てが悲惨な日々です。
そしてショッキングな記事が、新聞の1面目に載っていました。
立野地区がなくなる?
立野病院が廃業?
そんなバカな!
立野地区は阿蘇の玄関口で、JR立野駅は南阿蘇鉄道の出発駅でもあり、
阿蘇住民の生活や、阿蘇観光の重要拠点です。
その立野が無くなるなんて。
また立野病院は、最近増築して最新式の医療機器を導入したばかりです。
また総合病院で、南阿蘇の医療の拠点にもなっていました。
その病院が無くなるなんて。
その大きな原因が、土砂崩れの危険と、阿蘇大橋の崩落による村中央へのアクセスの消滅。
アクセスについては、今は遠回りになっていますが、そうのち新しい阿蘇大橋が出来るか、
トンネルが出来たら近くなる。
しかし問題は地区の裏山の土砂崩れだ。
平成24年7月の北部九州豪雨の時、土砂崩れが発生。
犠牲者も出ました。
まだその時の傷も癒えぬうちに、地震で再び同じ災害が発生した。
また病院の裏山も、危険な状態が続いている。
立野地区の皆さんは、現在隣の大津町に避難していますが、
一体これからどうなるのでしょうか。
戻って今までのような生活が出来るのでしょうか。
この思いは私達この避難所にいる全ての皆さんも同じですが。
「立野地区」は明日も続く。
ではまた。
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更新 平成28年5月11日9時
「立野地区」は後日お送りします。
急な話ですが、
私達ダイアリー一家は、高森のコテージに移ることになりました。
実は次女が勤務している会社が、高森にあるコテージの宿(こちら)を貸しきって、
今回の被災者に無償貸与されました。
私達以外にあと二組いらっしゃいます。
本当に有り難いことで、大変感謝申し上げます。
期間は6月末日までです。
震災直後から話はありましたが、体育館のほうが色々情報も入ってくるのでお断りしていました。
しかし体育館でも二次避難場所への移動が始まったので、
これを機会にコテージをお願いしました。
地震直後からず〜っとココで過ごして、色々思い出もありますが、
復興へ向けての一歩として、移動することにしました。
今日の写真はココでの生活のスナップで、体育館に感謝を込めての掲載です。
ある日の昼食。
普通昼食は簡単ですが、この日は違っていた。
デザートのケーキまで付いて、お腹パンパン。
隣の大分県からは「おんせん県」らしい足湯のサービスがありました。
足湯って足しか浸かっていないのに、身体がポカポカしてきて、
なかなか良いものですね。
たかの友梨美容専門学校のエステのサービスもありました。
皆さん見違えるように・・・
体育館の二階の手すりに、いつの間にかダンボールが覆われていた。
ぐるっと囲むダンボールは、まるで「進撃の巨人」の壁のようだ。
ここから巨人たちが、人間を監視しているようで不気味だった。
まあ考え過ぎだけど。
チョットは心に余裕が出てきたかな。
地震直後は多くの犬達が校庭に繋がれていたが、今はシュウとこの犬だけになって寂しい。
散歩の時近づくと、おもいっきり尻尾を振って嬉しそうだった。
でもシュウは無関心の様子だった。
グランドの後ろの山には、風力発電の風車が見える。
でも震災後は止まったままだ。
この風車が回りだしたら、いよいよ復興の暁か。
では今日はこれで終わりです。
今から荷物をまとめて、コテージに移動します。
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更新 平成28年5月12日8時
さて昨日から暫く高森のコテージにお世話になります。
ココは広域農道沿いにあり、周りは別荘が点在しています。
同じタイプのコテージが3棟あり、13畳のタタミの部屋・バス・トイレ・キッチン付きです。
このコテージ全部、会社が貸しきっているのですね。
敷地内の芝生と木立の新緑が目に眩しい。
そう言えば、もうそういう季節がやって来ているのですね。
気が付かなかった。
少し歩けば根子岳も見え、シュウの散歩道がアチコチにあります。
やっぱり森っていいなあ。
深夜目が覚めた。(歳だから夜中に必ず目が覚める)
静かだ。
昨夜までの体育館での騒々しさがウソのように、辺りは静まり返っている。
そして一夜が明けた。
野鳥のさえずりで眼が覚めた。
贅沢だな〜。
でもよく考えると、地震の前はこれが日常だった。
もうあの日に帰れないのか。
これから先どうなるのか。
被災者の皆さんも、同じ思いだと思う。
では今日はこれで失礼します。
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更新 平成28年5月13日8時
「役場職員だって被災者だ」
メルヘン村の下の県道は、斜面崩落の危険があるので、現在通行止めになっています。
迂回路とし「乙ヶ瀬」集落を通っていますが、
この道は大変狭く、大型は無理でまた事故の危険性もあります。
そこで県道の下を通っている道を拡張して、県道の迂回路を急ピッチで作っています。
実はこの道は、立野ダム建設で出た土捨て用の道で、まだ一度も使用していません。
車が走らないから「シュウ」の、朝夕の散歩コースでありました。
その道がこのような目的で役に立つとは。
★上の話はメルヘン村内から下を見たら職員の姿が見えたので、降りて行って聞いた。
その中に村の職員がいました。(紺色の人)
体格のいいまだ40歳代位の人で、この道の事とか、メルヘン村の丘の事とかを聞いた。
色々話してもらって最後に私が
「大変な事になってねぇ」とポツリと言った。
そうしたら彼は急に涙目になって、涙が流れるのを一生懸命我慢していた。
震災後、彼は人には言えない内に溜め込んでいたものがあったのでしょうね。
私の一言で、堰を切ったように思いが溢れ出て、涙を流したのでしょう。
それを見た私は、彼の手を強く握って、私も泣きました。
「大変なことになったが、
私達は私達で出来る事を、あなた達はあなた達で出来る事を一生懸命やっていこう。
必ず元の姿の素晴らしい南阿蘇を取り戻そうな」
彼は泣きながら、何度も何度も大きくうなずきました。
彼もまた私達と同じ被災者なのですね。
多分震災以来一度も帰宅せずに、復興に向けて頑張っているのです。
彼だけではありません。他の職員も皆んな同じです。
彼のような職員がいる限り、きっと南阿蘇村は復興しますよ。
きっと以前のような、いやそれ以上の南阿蘇村に・・・。
★昨日は久しぶりに、コテージのTVで「VS嵐」を見ながら夕食を食べた。
震災以前は毎週の恒例だった。
余談だが・・・
娘二人は嵐のフアンクラブに入っていて、7月コンサートのチケットが当たっていた。
しかし地震があったので諦めていたようだが、絶対に行って楽しんできてもらいたい。
その後ごろ寝しながらTVを見ていたが、その後の記憶が無い。
気付けば朝になっていた。
こちらに来てまだ二晩だが、すこぶる体調が良い、よく寝られる。
血圧も137と69まで下がった。
自分では大丈夫だと思っていたが、相当無理をしていたと思う。
写真は久しぶりのトーストとコーヒーの朝食です。
これも震災前は日常だったのですね。
今日はこれで。
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更新 平成28年5月14日7時
5月10日の続きです。
昨日は久しぶりに大津町へ出掛けた。
震災前は20分で行けたが、阿蘇大橋が崩落してからは、一時間以上も掛かるようになった。
帰りは気になっていた「立野地区」まで行ってみた。
当然立野から先は通行できないが。
行程は、
高森のコテージ
↓
グリーンロード南阿蘇
↓
大津町
↓
立野
↓
再び大津町まで戻って
↓
ミルクロード
↓
二重ノ峠
↓
天空の道
↓
再び二重ノ峠に戻って
↓
赤水
↓
メルヘン村のある乙ヶ瀬
↓
高森のコテージ
全工程150キロの走行だった。
大津町の郊外の道路案内には、立野方面は通行止めの文字が。
このペケ印が消えるのはいつの日か。
遠く薄っすらと見える山は、阿蘇の烏帽子岳。
国道57号線をそのまま進むと、近年出来たメモリアルパーク、いわゆる集合墓地が無残な姿になっていた。
ここは急斜面に階段状の墓地が沢山並んでいたが、全て崩落していた。
この土砂の中には、多くの家のご先祖様のお骨が埋まっている。
今後これらのお骨はどのようにして家族の元へ戻るのか。
57号線から向かいの山を見たら、「岩戸渓谷」にも崩落の跡が見えた。
ここは国道からも近く、簡単に深山幽谷を味わえたいい所でした。
渓谷の道を登り切った所に岩戸神社もありますが、
この崩落で登山禁止になっていた。
立野に近づいたが、当然走っている車はない。
震災前は、乗用車・トラック・バスなどが多く走っていて、
阿蘇地域の重要な道路だった。
だからこの景色が信じられない。
立野の集落に到着してビックリした。
話には聞いていたが、コレほど酷いとは。
右の白い二階建の家は、前回の北部九州豪雨のあと建てられたが、地盤が崩落していた。
倒壊している家・倒れかけている家・ブルーシートが掛けてある家。
殆どの家に被害が出ている。
集落に入ることも出来たが、とてもそんな気にはなれなかった。
国道からの撮影。
この家並みが元に戻るのは、いったいいつの日か。
そして立野地区で問題なのは、裏山の崩壊です。
写真は土砂崩れで犠牲者が出た所です。
ここの上に電力会社の発電用送水管が設置してあって、
送水箇所の詰まりで水が溢れ出て、土砂崩れが起きたのではないかと、新聞に書いてあった。
現在専門家による調査が行われている。
そしてこれが南阿蘇の医療の拠点にもなっている立野病院です。
ここにも裏山の土砂が後200メートルに迫っていて、現在閉院。
患者さんは別の病院へ転院されています。
しかしこの病院が無くなるなんて。
とても信じられない。
南阿蘇の電気を一手に引き受けている高圧送電線の鉄塔が、
地震により倒壊の恐れが出たので、急遽仮設の鉄塔を立てて、
南阿蘇に送電しています。
だから南阿蘇には電気は復旧しています。(まだ停電しているところもあるが)
写真は立野地区に立ち並ぶ、仮設の鉄塔群。
阿蘇では唯一の原生林で有名な北向山。
立野地区の向かいにあるこの山も、アチコチで崩落の後が見られます。
いったい被害の大きさはどれだけのものなのか。
地震の爪痕は途方もなく多く、被災者にも爪痕を残しています。
今日はこれで。
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更新 平成28年5月15日午前7時
★明日であの本震から一ヶ月が経つ。
あっという間の一ヶ月なのか、
やっと一ヶ月なのか、
人それぞれだが、
無我夢中の一ヶ月だったのは、皆んな同じだと思う。
知らない人、知っている人達から、声をかけられたり、助けられたり。
人の優しさが身にしみた一ヶ月だった。
そして今、心に少しばかり余裕が出てきて思うのは、これからどうなるのか。
まだ明日が見えない。
ただ時間が過ぎる毎日を送っている。
★今日改めて、家族で地震発生直後の事を話し合ったが、
そこでペンションをやっていて、その時役立った事があった。
・客室には、ホルダーから外れたら自動的に付く懐中電灯がある。
( 家族は前日に前震があったから、客室で寝ていた。客室は転倒する家具がない
)
・廊下には、停電しても30分は点き続ける非常灯がある。
・お客用のスリッパが散乱していた。
だから館内は真っ暗にならず足元も確保できて、割れた物で怪我もせず外へ脱出できた。
これはかなり助かった。
★現在の日課は、
午前中はペンションに戻り、余震を気にしながら、必要な物を運びだして、
知り合いのペンションの部屋を借りているので、そこに運んでいる。
昼になったら、避難所の体育館でお昼の弁当・新聞をもらって、
情報収集して、高森に戻って昼ごはんを食べている。
そんな毎日です。
★今避難している高森は、同じ南阿蘇にあっても、被害が少なかった。
ここにはいつもの時間が流れている。
早朝、シュウと散歩に行くと、カッコウの鳴き声が原野に響いていた。
そう言えば震災前は、ペンションの周りもそうだった。
拡大写真は「こちら」
今日はこれで。
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このページが重たくなったので、明日からは2ページ目をアップします。
2ページ目は「こちら」
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