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更新 平成28年5月16日午前7時
★「天空の道」も大変なことになっていた。
新聞の空からの写真では、いつも風景写真を撮っていた場所の反対側が、
ひどく崩落していた。
道は通行止め・立入禁止になっていたので、現地まで歩いていけなかったが、
道のいたるところで斜面の崩落がひどかった。
ここも暫らくは通行できないだろう。
入り口に立っているお地蔵さんは、いつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
★古いお墓が、新しいお墓が倒れるのを支えていた。
ご先祖様も、今回の地震には驚愕されているだろう。
中学校の避難場所の近くで見かけた。
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更新 平成28年5月17日午前7時
★近くの「火の鳥温泉」の現在の姿です。
一時は、自衛隊・警察・警察・報道・ヘリコプターで騒然としていましたが、
今はひっそり静まり返っていました。
ここでも被害者が出ましたが、お客様でした。
残念です。
同業者でもあり、宿の人達を昔からよく知っているので、心中察するに余りあります。
本当にかける言葉がありません。
土砂崩れが発生した地点に、発生原因を調査する関係者の姿が見えました。
隣の山からも土砂崩れが起きて、近くの別荘地にも被害が出ていました。
被害はいったいどれだけ広がっているのか。
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更新 平成28年5月18日午前7時
★根子岳が変わった?
地震後、阿蘇五岳の一つ「根子岳」の姿が変わったと報道があった。
今は高森に避難していて、根子岳を見ながら毎朝の散歩をしています。
確かに山の峰が一部崩落しています。
地震の影響がここにもあったが、よく気付きましたね。
★南阿蘇村の避難所の一つ「南阿蘇村中学校体育館」の向かいに「南阿蘇村長陽支所」があります。
被災者・救援車両が、忙しく行き来する支所の道端に、一つの銅像が転がっていました。
地震の影響で転倒したのでしょうが、
この胸像は三村が合併する前の「長陽村」の村長だった増田一男氏です。
当時全国町村協議会(確か)の議長も歴任。
人気の村長でした。
無くなった後、その業績を称えるためこの胸像が作られましたが、
この事態を、空の上から如何に思われているのでしょうか。
地震直後、この胸像も横倒しになっていたが、誰かが起こされたのでしょうね。
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更新 平成28年5月19日午前7時
昨日は京大火山研究所の丘へ行ってみた。
ここの丘は、雲仙普賢岳や有明海が望める、絶好の場所です。
私は夕日の写真をよく撮りに行っていた。(写真は震災前)
その時撮った、普賢岳に沈む夕日の写真は「こちら」
目の前にありながら、震災後なかなか行く機会がなかった。
ここへはいつもは村道を通って行っているが、今は県道の迂回路を作っているので、沢津の集落から入った。
この細い道は、シュウの散歩コースで、毎日朝と夕方歩いた道だ。
もうこの道も歩くことはないだろう。
工事現場に差し掛かった。
数台の重機がうなりを上げながら、急ピッチで迂回路を造っていた。
途中から研究所へのアスファルトの道に出たが、
道路には大きな段差が至る所に出来ていた。
敷地内には無数の亀裂も入っていた。
建物外観は傷んでいないように見えたが、アプローチや内部は酷いことになっていた。
その時無人と思っていたが、人の声がしたので、慌てて裏に回ってみたら、二人の職員が片付けをしていた。
四駆で登って来たとのこと。
ココは夜間は無人と聞いていたが、一人の人は本震発生時この建物に居たそうだ。
怪我はなく無事だった。
そして研究所を後にして、アスファルトの道を、今来た方とは逆の方へ降りて行った。
初夏の日差しが暑かった。
「暑いなあ、今日も夏日だろうなあ」と、独り言をいいながら歩いていた。
その時!
まさか!まさか!
明日に続きます。
追伸
昼過ぎ、瑠璃温泉の近くを走っていたら、すぐ上を自衛隊の大型ヘリが通りすぎた。
19日は天皇皇后両陛下が来熊され、南阿蘇村にも来られるので、
総合グランドで、離着陸の訓練だったのか。
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更新 平成28年5月20日8時
昨日の続きです。
まさか!まさか!
無い!無い!無い!
道が無い!
アスファルトの道が、突然途切れて無いのです。
目の前には、10メートルは陥没して、粉々に千切れた大地が広がっていた。
そんなばかな!
最近この様な状態をいくつも目にしてきたので、
少々のことでは驚くことがなくなった私だが、それでも驚愕した。
ボー然とした私の周りをぐるぐる回っていたシュウは、この事態を理解できないようだった。
右手の丘にあった黒川地区の水源が、遥か彼方へ流されていた。
その後、暫らくは立ちすくしていたが、気を持ち直して、右の方へルートを変えて登っていった。
ここは高野台への崩落が始まった場所です。
そこも同じような状態だったが、
さっきビックリして感覚が鈍くなったのか、あまり驚かなかった。
ここも大規模崩落が発生して、被害者が出た。
拡大写真は「こちら」
その後、火山研究所の丘を後にして帰路についた。
再び工事現場に差し掛かったその時、
シュウが工事現場の方へ向かっていった。
その先には、いつも歩いていた小さな橋があったが、
今は工事のため、その橋は埋まって通れなくなっていた。
シュウは土に埋まった橋の方をジッと見ていたが、いったい何を思っているのか・・・。
★昨日は天皇皇后両陛下が、避難所の南阿蘇中学校体育館に、被災者を見舞われました。
体育館に入られたお二人は、別々に分かれ私達の方は皇后さまが回ってこられました。
皇后さまは全ての被災者の前に寄られ、お言葉をかけられました。
私達夫婦にも、優しいお声で「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」。
それまで緊張していたが、その一言で熱いものが込み上がりました。
なんと優しい方なのか。
思わず「遠い所お越しくださいまして有難うございます」と言ってしまいました。
↑
なぜだか覚えている。
私達を始め被災者の皆さんは、元気・希望を頂きました。
天皇皇后両陛下へ改めてお礼申し上げます。
本当に有難うございました。
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更新 平成28年5月21日午前7時
★「それでもやっぱり阿蘇が好き」
あの深夜の地震から、いったい何日経ったのだろうか。
布団の中で、窓の外が白むのを何度見ただろう。
ただ時間だけが経っているような毎日だ。
ところで今は新しい居住を探しています。
メルヘン村は丘が崩落の危険性があるので、今までの所に住むのは無理です。
もうこの歳なので、多分終の棲家になるのか。
震災後、出身地から帰って来てとか、空いている家があるからこちらに来て暮らしたら、
とかいろいろ有り難いお誘いを頂きました。
でも申し訳ないが、ここを離れる気持ちはありません。
なぜならここ阿蘇が好きだからです。
特に南阿蘇が好きなのです。
ここには訪れる人を癒やす四季折々の風景や、
ここに住む人情深い人々の暮らしがあります。(今回特に感じました)
だからここを離れたくないのです。
また長年過ごした地元がこんな事になっているのに、離れるなんてとてもそんな事は出来ない。
皆んなが苦労しているから、自分も同じように日々を過ごし、微力ながら復興に協力したい。
そして阿蘇が復興するのを、この眼で見届けたい。
写真は5月20日に「あそ望の郷」でiPhoneパノラマで撮影。
拡大写真は「こちら」
阿蘇が好きな自分が撮影した風景写真集「季節の寄り道」は「こちら」
105点の写真が掲載されています。
お時間がありましたら一度ご覧ください。
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更新 平成28年5月22日午前7時
★今朝早く散歩の時、根子岳の上空に一筋の飛行機雲が見えた。
阿蘇は西に熊本の飛行場があり航空路の下で、飛行機雲を頻繁に見ることが出来る。
すぐにiPhoneを取り出し、飛行機雲は動きが早いので、バランスよく入れるには、待ったなしの撮影になる。
空を強調するためマイナス補正して撮った。
というか、最近落ち着いてきたので、以前のようにこういう事が出来るようになって来た。
拡大写真は「こちら」
★もうすぐ完成する迂回路。
メルヘン村の下の県道の迂回路が、24時間工事でようやくと言うか、早くも完成するようです。
工事関係者の皆様に感謝申し上げます。
この道が通れるようになると、河陽から赤水までスムーズに通行出来て、
阿蘇地区の物流が効率よく回ると思います。
ところで火研と無線中継塔が、微妙に傾いていることに最近気づいた。
火研は左後ろへ、中継塔は右に傾いている。
この向こう側には、犠牲者が出た高野台への土砂崩落が始まった所です。
この丘全体に亀裂があり、その影響で傾いているのでしょうね。
5月18日の記事の増田元村長宅も被害に合われました。
★まだ中学校の体育館に避難している時、駐車場でコーヒーの香ばしい香りがしてきた。
避難者へコーヒーの無料サービスをしているおじさんがいた。
私もおじさんだが・・・。
秋田から来られた加藤さんといい、以前はタイでカフェを営んでいて、たまたま南阿蘇にいた時、震災に遭いました。
その秋田さん、被災者のためにと地震直後からコーヒーのサービスをずーっと続けられています。
私も頂きましたが、久しぶりの本格的なコーヒーは旨かった。
次女はすっかりファンになって、何度も頂きに行っています。
このことが時事ドットコムの記事になっていました。
その記事は「こちら」
しかし次女は地震後アサヒグラフに載ったり、時事ドットコムに載ったりとやけに出演が大いいな。
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更新 平成28年5月24日7時
★リ災証明
南阿蘇村で「り災証明」が発行されました。
我が家は「半壊」でした。
外観は見た目には大きな傷がなかったので、よくて半壊、悪くて一部損壊かなと思っていた。
だから「半壊」と判定が出たので、受け入れました。
ちなみに保険会社の地震保険では、全壊でした。
どちらかと言えば、コッチのほうが大事だった。
しかし人生で「り災証明」を受けるなんて、一回きりでいい。
★迂回路完成
通行禁止になっていたメルヘン村の下の県道の迂回路が、遂に完成しました。
これで大型車が通行可能になり、
物流がスムーズにいき、復興に弾みがつきますね。
上の写真の右側が今までの道。
左側が新しい迂回路。
ちなみに、下の写真は地震前の道。
立野ダム建設の土捨て用の道で、まだ一回も使われたことはない。
車が走ることがないので、シュウの朝夕の散歩道だった。
のどかだったあの頃が懐かしいなぁ。
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更新 平成28年5月25日7時
★「山が鳴いた」
今は新しい住居を探していますが、
巨大地震を経験した者としては、場所選びには慎重になります。
場所は南阿蘇と決めていますが、
・活断層からなるべく離れた場所。
・夜峰山の山麓は、山からの土砂崩れが心配。
・すぐ側に谷や川がない。
・盛土ではない。
・東部は阿蘇噴火時、降灰の心配がある。
また冬期は冷え込む。
・そして・・・安い物件。
などいろいろ条件があるが、なかなか無いですね。
でも慌てないで、じっくり考えて決めたい。
そんな中である話を聞きました。(ウワサ話ではない)
「地震前、山が鳴いた。聞いた事がない音だった」
この話は複数の人から聞きました。
具体的な場所は言えないが、今回の地震では被害が出なかった。
今回は良かったが、この次地震が起きた時が心配だ。
でも次回はいつか?
自分たちが生きている時か?100年後か?1000年後が?1万年後か?
そんなこと心配してもしょうがない。
いや用心するに越したことはない。
考えれば考えるほど、何処がいいのか悩んでしまう。
★「羽衣をまとった天女?」
24日早朝、東の空の雲の切れ間から、衣をまとった天女が現れた。
それは朝日に輝いて、熊本地震の被災者を憂い、
そして希望を持つように語りかけているようだった。
ただ朝早かったので、何人の被災者が見ただろう。
見過ごした被災者の皆さんへ提供します。
こちらは以前見かけた「鳳凰」。
阿蘇の大空を悠然と飛んでいた。
ただの雲と見るか、「天女」「鳳凰」と見るか、それは見る人の感性に左右される。
人々はもっとイマジネーション豊かになるべきだ。どんな時でも。
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更新 平成28年5月26日7時
★「次は国道57号線を」
5月24日の記事の迂回路の開通の時、国土交通省の担当者から聞いた話では、
ここの迂回路が完成したので、次は国道57号線の開通を急ぐ。
方法としては、崩落している箇所だけでも、
57号に並走しているJR豊肥線を、国道として作り変える。
その前に上部に砂防ダムを作り、梅雨や大雨での崩落を防ぐ。
とのことでした。
豊肥線の線路を外して、平らな部分を拡張補強して、道路として使うわけですね。
国がやることは大胆で早いです。
現在国道57号線の迂回路のミルクロードは、朝夕は通勤の車や大型車で毎日大渋滞しています。
早く開通することを願っていますが、大雨で再び崩落しないか心配です。
この工事は「とりあえず」で、最終的にはココを避けて、
新阿蘇大橋(←この名称は私が勝手に考えました)とか、
トンネルも候補に上がっているようです。
写真は「阿蘇大橋崩落現場」
大規模崩落を隠すように、霧が静かに覆っていた。
★「お世話になった避難所閉鎖」
地震発生初日からお世話になった中学校の避難所が、閉鎖されることになりました。
情報交換で賑やかだつたロビーは、掲示も無くなりすっきり。
一時は多くの車で埋め尽くしたグランドも閑散と。
一ヶ月以上、被災者の皆さんと過ごした体育館だが、当時を思い起こすと感慨無量です。
でも「これで終わった」わけではなく、場所を変えて私達被災者は毎日を過ごしています。
今は二次避難場所として、
「阿蘇ファームランド」「グリーンピア南阿蘇」「国民休暇村」などに分散して入居しています。
そしてこれからが大変。
今から長い長い道のりが、始まろうとしています。
それは私たち自身が、希望を持って進むしかないのです。
でも人間って弱い生き物です(強い人もいますが)
時には悩み、時にはくじけそうになります。
そんな時、皆様から「勇気」と「希望」を頂きたいので、
どうぞこれからもご支援よろしくお願い致します。
被災者を代表して。
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更新 平成28年5月27日7時
★奇跡?の石橋
今日はいい話です。
南阿蘇村の黒川集落は、東海大学農学部の学生さんが利用する下宿村で、
すぐ近くには崩落した阿蘇大橋もありました。
今回大きな被害が発生、残念ながら犠牲者も出ました。
その集落に昔からある石橋「床瀬川橋」があります。
大正7年に、阿蘇方面にぬける主要道路の橋として、掛けられました。
その石橋も今回の地震で被害を受け、橋の上のアスファルトの道は、
通れないくらいに大きく崩落していました。
しかし、
横から見ると、なんと石橋だけは残っているではないか!
ここは活断層が走っていて、相当大きな揺れのはずだったのに。
ガードレールも落下して周りの土手も崩落。
でも石橋だけはなんともなっていない。
すごい!
石橋はただ石を積み上げているだけなのにね。
先人の技に驚きます。
ちなみに、山都町の通潤橋は地震の影響が出て、放水中止になっている。
その通潤橋は「こちら」
実はこの橋の事は、今まで知りませんでした。(恥ずかしい)
先日このHPを見られた広島の方から、メールをいただきました。
娘さんが東海大学農学部に在籍、そして被災されました。
怪我はなかったようですが、今は広島へ戻られています。
「床瀬川橋」のことは、その娘さんからの情報でした。
阿蘇が大好きとのこと、阿蘇が復興したら、また戻ってくださいね。
待っていますよ。
震災後気が滅入る話が多い中、久しぶりに嬉しい内容でした。
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更新 平成28年5月28日7時
★豊富な湧水の小池水源
小さな水源が点在している南阿蘇村ですが、
地震以降「塩井社水源」は枯れてしまったが、それ以外の水源はキレイな湧水で満ちています。
この「小池水源」はマイナーですが、
他の水源と違って規模が大きく、唯一灌漑用水の池として利用されてきました。
田植え時期には周囲の田んぼに配水しています。
透き通ったキレイな水だから、水中の水草もハッキリ見えます。
★ピアノソロの調べ
シュウの早朝の散歩が終わり、いつも車の狭いトランクにいるので、
少しの時間クマルの外に繋いで、外の空気を楽しませています。
その間私はスマホでネットニュースを見たりしているが、
飽きたので久しぶりにカーラジオをつけた。
カーラジオから、ピアノソロの優しい調べが流れてきた。
そのピアノの旋律は、まだ静まり返った駐車場の林へ消えていった。
そう言えば地震発生前は、毎朝レコードから流れる音楽を聞きながら、
コーヒーを飲むのが習慣だった。
特にジョージ・ウィンストンが大好きで、よく聞いていた。
カーラジオのアーティストは誰か解らないが、素晴らしい旋律に、あの日を思い出した。
気が付くと目頭が熱くなっていた。
あの日に帰れるのか。
いったいいつになったら、また平穏な日々を過ごせるのか。
シュウがクンクンと傍に擦り寄ってきた。
また熱くなった。
しばらくしてラジオ局名が流れた。
「ましきさいがいエフエムです」・・・
一気に現実に引き戻された。
あ〜あ、また一日が始まった。
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更新 平成28年5月29日7時
★今阿蘇を車で走ると、幹線道路は補修が進んで、安全に走ることが出来ます。
しかし脇道に入ると、写真のように道路が崩落した箇所が無数にあります。
また亀裂や段差も数多くあり、慎重に走ることが必要です。
★「もう時期梅雨」
最近では体に感じる余震は、ほとんどありません。
しかし梅雨に入ると、別の危険性が発生します。
山からの土砂流出です。
雨が山の亀裂に浸透して、山肌がゆるくなって土砂崩れが発生する確率が高まります。
ダイアリーのあるメルヘン村は裏山はないが、村全体が丘になっていて、地面には亀裂が無数に走っています。
今でも村の周囲は危険な状態だが、これ以上の崩落が起きないか心配です。
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更新 平成28年5月30日7時
★こんなラーメン初めて
昨日宮崎より、被災者向けのラーメンの炊き出しがありました。
ラーメン好きなので、いただきに行きました。
大雨だったが大勢の人が来ていた。
初めて見るラーメンだった。
コンニャク麺で卵が入っていた。
コンニャク麺と言ってもコンニャクは入らず、そば粉が主原料の麺だ。
ラーメンは基本「豚骨・細麺ストレート・具は最小限」だと信念を持っているので、ビックリした。
味はピリ辛で美味しかった。
★なぜ阿蘇が好きか?
このHPに阿蘇が好〜きだ好〜きだと書いていますが、
具体的に何故と聞かれると・・・返事に困ります。
景色がいいから?
空気や水がキレイだから?
それもありますが、本当のところ「これだ」と言うのがありません。
しいて言えば・・・「ただなんとなく」ですか。
阿蘇には、そんな気持ちにさせる何かがあるのでは。
30年阿蘇に住んでみたら、いつのまにか阿蘇が大好きになり、
第二の故郷となりました。
その思いは震災後、ますます強くなりました。
写真は黒川温泉近くの、新緑のクヌギ林。
ちょうど今の時期だが、今年は撮影に行ける状態ではない。
でも気分転換に、弁当を持って行ってみようかな。
拡大写真は「こちら」
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更新 平成28年5月31日7時
★「隼鷹神宮も」
阿蘇市的石にあり、隠れた秋の紅葉スポットでもある、隼鷹神宮も被災していた。
紅葉の写真は「こちら」
石の鳥居が粉々に砕けていた・・・。
拝殿・本殿共に斜めに傾いて、今にも倒れそうだった。
池は綺麗な湧水が満ちていたが、沢山いた鯉が一匹もいなかった。
地震前は、人懐こい鯉がゆっくりと近寄ってきていたが、何処に行ったのか。
写真は池に映る新緑の木々。
同じ敷地内にある「的石御茶屋跡」も倒壊していた。
ちょうど見頃を迎えた、庭のサツキが綺麗だった。
行く先々で震災の爪痕が、これでもかこれでもかと襲ってくる。
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更新 平成28年6月1日7時
★雲海発生
久しぶりに雲海が発生した。
規模は「中」程度だったが、久しぶりだったので感動した。
このダイナミックな景色も、人々を引き付ける阿蘇の魅力の一つかな。
拡大写真は「こちら」
被災地に「希望の太陽」が昇ってきた。
今日も頑張らなくては。
左の山なみは九重連山。
雲海の下には、田植えが盛んに行われている田園が見えてきた。
久しぶりの感動の雲海だったが、被災者の何人がこの雲海を見ただろうか。
毎日忙しいから「そんな余裕はない」と言われそうだが、
こんな時だからこそ、時々は阿蘇の季節の移り変わりを楽しんでもらいたい。
阿蘇に住んでいて、阿蘇の大地に恵みを頂いているから。
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更新 平成28年6月2日7時
★車が沈む?
これはマジックではありません。
向こうからやって来たトラックが、前かがみになった。
次の瞬間、トラックが半分ぐらい沈みこんだ!
オッと思ったら、急にトラックが浮き上がってきた!
この場所はJR内牧駅から、内牧温泉へ向かう途中にあります。
地震で大きな段差が出来て、その跡をとりあえず落差はそのままにアスファルト舗装して、
走行可能になっていた。
でもシャコタンは、絶対に腹を擦るのは間違いない。
実際アスファルトには、擦った跡がたくさん見られた。
ここは断層が走っているようで、側の民家の土地は大きく沈み込んでいた。
道路を挟んで民家の反対側では、ビニールハウスも断層を境に変形していた。
そう言えば地震直後、メルヘン村の前の県道にも、タイヤ一個ほどの段差が出来て通行不能だった。
すぐに補修されたが。
まだまだ地震の被害を、いたるところで見られる。
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更新 平成28年6月3日7時
★干上がった池
写真は阿蘇猿まわし劇場のそばにある池ですが、
地震後、干上がっていました。
「塩井社水源」以外に干上がっている池は、初めて見た。
以前はこんなに豊富な水を蓄えていたが・・・。
撮影時、東の空が明るくなって来て、水面(みなも)に朝もやが広がってきた。
まだまだ自分が気付かない場所で、地震の影響が出ている。
★影響なし
逆にこちらは影響がなかった。
阿蘇市湯浦地区の「ビオトープの森」。
ただ草が伸び放題だった。
例年だったら草刈りが行われてキレイに整備してあるが、
今年は地震のためそれどころではないのでしょうネ。
訪れる人もいなかった。
赤水の「蛇石神社」
親白蛇も子どもの白蛇も元気だった。
久しぶりに行ったら、参道には灯籠が並び整備されていた。
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更新 平成28年6月4日7時
★最近は昼はダイアリーに戻って、必要な物だけ整理している。
保険の審査が終わったので、倒れたタンスや本箱などを起こして、少しは片付いたかな。
ダイアリーの自慢でもあった1600冊余の蔵書。
あまりにも多いので、これを機会に本当に必要な本だけ残して、
不要な本は廃棄することにした。
解体(いつになるかわからない)までの時間はタップリあるので、
少しづつ選別しているが、「いる、いらない」で迷ってしまう。
本を片付けていると、金魚が出てきた。
地震で水槽が吹っ飛んで割れていたので、当然死んで干からびていたが、
可哀想だから、ダイアリーママが庭に埋めてやった。
水槽の底に敷いていた石も、飛び散っていた。
この金魚たちは長生きで、右の金魚は早く死んだが、他の二匹は地震まで生きていた。
飼って10年以上経っていたが。
写真は三匹ともまだ元気な時撮影。
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更新 平成28年6月5日7時
★被災地は、今日も感動の夜明けとともに一日が始まった。
6月1日は雲海だったが、この日は感動の朝焼けだった。
波打った雲が朝日に照らされ、赤く色付いて、空が茜色に染まった。
今日から写真撮影のカメラは、デジタル一眼になりました。
長い時間使用しなかったので、最初操作に戸惑った。
写真の下に写っている山は、阿蘇のエクボとも言われる「米塚」。
この米塚も山上の周辺に亀裂が見つかっている。
★その米塚を、以前撮影したのが下の写真です。
「厳冬期」
阿蘇の冬はやっぱり寒いです。
今はもう慣れたが、移住してきた時はあまりの寒さに驚いた。
でもこの厳しい寒さが、春を迎えた時の喜びを一層感じさせる。
「野焼きの後」
阿蘇の春を告げる野焼きだが、阿蘇の原野を維持するのに欠かせない行事です。
野焼きの後は、阿蘇全体が真っ黒のビロードをまとっているようだ。
そしていよいよ阿蘇も春を迎える。
「新緑の季節」
初夏の頃、その黒色のビロードは、眼にも眩しい緑色のビロードに変身する。
ちょうどいま時期だが、登山道路は全線通行禁止になっているので、近づくことは出来ない。
阿蘇観光の要の登山道路の早期復興を願います。
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更新 平成28年6月7日7時
★双葉ではなく四葉ハイツ?
5月27日の記事の「床瀬川橋の石橋」ですが、
石の橋自体はしっかりしているが、その上のアスファルトの部分が、
崩落してますます細巻なっていた。
近くの道も崩落して、ガードレールの支柱が飛び出ていた。
この橋の情報をいただいた東海大学の学生さんのご両親が、広島から来られました。
娘さんが利用されていたアパートの前で撮影。
ご両親と地震の時の話をしていた時、ダイアリーママが叫びました。
「四つ葉のクローバーがあったよ!」
「あっ!ここにも、あっ!ここにもあった」
なんとアパートの側の土手の草の中に、四つ葉のクローバーがあったのです。
しかも次から次へと発見。
「えーっマジかよ」
「あーホントだ」
「ほらココにもある」と、歓声が上がりました。
地震の話に憂鬱になった気持ちを、吹き飛ばす発見だった。
その時、ここのアパートの名前は「双葉ハイツ」だが、これでは「四つ葉ハイツ」ではないか。
と誰かが言った。(多分ご両親のどちらかだったと思う)
これは偶然か?
それとも阿蘇の大地からの、復興へ向けたメッセージなのか?
その下宿の部屋のベランダに、雨に濡れた白いタオルが風に揺れていた。
そのタオルには「阿蘇に戻って来るぞ!みんながんばろう!」とメッセージが書かれていた。
それを見た途端、目頭が熱くなってきた。
学生の皆さ〜ん!
必ず阿蘇に戻ってきてね〜。
下宿のおじさんやおばさんたちも待っているよ〜
今は無人になってひっそりとしたハイツだが、いつかは学生たちの賑やかな声が響き渡る時が、再び戻ってくる。
必ず戻ってくる。
そう信じて私達被災者も頑張るぞー。
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